昨今つくづく思うのだ。私にもっとも欠けているのはParrhesia(パレーシア)だと。せめて絵だけでもそのように向き合っていきたいと願うが、そうすると沈黙と虚偽の申告ばかりが私を取り巻き始める。これは絵の内部の話ではなくて、ディオゲネスですら雨風を避ける酒樽を要すということ。シュジェの問題は真にきりがない。しかしシュジェの置きどころは極めて大事な事柄だ。
私から出てすっかり忘れていたものが、私に戻ってくることが多くなった。それは捨て切れなかったことを意味する。何時迄経っても生成りということである。