この画像は恐らくフーコーの振り子か、天球儀に類するものであろうが、何の目的で採取したものやら自分でも記憶がない。以下の文言ーーデモクリトスの唱えた原子論ではクリナーメンという、偶然的な要素を説に組み込んでいた。イスラームの原子論においては、「偶有(arad)」ということを想定していたーーから「偶有(arad)」に就いてつらつら考えながらイスラム文献を漁っていたのではなかろうか。
何かの資料に役立つだろうと思いつつ、単に絵の素材とするには、はっきり言って退屈な代物に思える。敢えて面白がるとすればこれを大きな「魔眼」装置の建設とでも思って、上部に巨大な人造の眼球が入る予定だ、とか何とかイメージ遊びをするのが関の山。
何故「偶有(arad)」などという観念に囚われていたかと言うと、己の周囲に矢鱈契機が集中し、自分がまるでチャンスの神様のように思えてしまうという、バークリーの観念論めいた莫迦な考えが浮かんだからだった。しかも哀しいかな私の齎すその契機によって恵まれるのは、何時も周囲の他人ばかりであり、私にはいっかなチャンスなど巡り来ぬという悪循環を何とか断ち切りたいと思ったが故である。