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熊斐(ゆうひ)筆「王母献寿図」である。神戸市立博物館の文言を引用すれば以下。 ー中国道教の女仙・西王母が後漢の武帝に不老長寿の桃を献上したという伝説に基づくもの。この桃は三千年に一度だけ実をつけると言われ、長寿を祈る画題である。大きな桃を3個、画面に取り上げた構図が斬新。 熊斐(1712-72)は享保16年(1731)に来日した中国人画家。沈南蘋から絵を学んだ。日本での南蘋風絵画大流行の根源となる重要な画家である。ー 沈南蘋及び長崎派にはシンパシーを覚えていた。享保年間は平賀源内や伊藤若冲、円山応挙を生んだが、江戸のマニエリスムに大きく影響したのが沈南蘋と長崎派の存在である。 前々から心にかけつつ竟に実行しなかったが、今の絵が終わったら、本格的に日本画の骨法を覚えようかな。 IFAAメンバーのS.Kさんによらば、絹本の仕立ては数百万かかるとか。そんなのは勿論無理だから、その辺の襖紙を買って来て、洋画家の日本画手習いの巻になるな。私は中学時代夢中になって浮世絵の模写をしていたとはいえ、キャンバスに描くような安直さでしか、太刀打ちできっこありません。 今にし思えば、今は焼失した富山懸中新川郡上市町は『料亭月見楼』の、何処迄もほの暗い渡り廊下と迷路じみた座敷の数々、その帳場の向かいにあった貸本屋で貸本漫画『墓場鬼太郎』(水木しげる作だったかどうかの覚えはない)と出会ったのだった。 その座敷には貨車一台文分の書画骨董があって、祖父は芸者を置く稼業を嫌い全て売り払って今の会社を起業したのだった。由来真面目一途、芸事に手を出すなが祖父の教えであったが、二代、否、三代で元の木阿弥。 母と二人、座敷牢のような結界に閉じ込められて二歳まで育った私は、玩具を窓から放棄しては外の世界との断絶を確かめていたと母は語った。そんな幼児の記憶はないが、北陸の因襲的な世間と暗い情調を何がなし忌避すると共に、繰り返し見るおどろおどろしい悪夢の数々に魘されつつ、魅惑されもしていたのだろう。しかし少年は妖怪や魑魅魍魎と遊ぶよりも、それを明解に支配し退治する『悪魔くん』に親和し、日本的情調を追いやって、今に至っているとすら言える。ある意味私は長崎留学から戻れぬ遊里通いの放蕩者、或いは「客人神(まろうどがみ)」になってしまっていたのかも知れない。
by shojitanaka
| 2008-07-14 15:27
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