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1 Der Rattenfänger Johann Wolfgang von Goethe Ich bin der wohlbekannte Sänger, der vielgereiste Rattenfänger, den diese altberümte Stadt Gewiß besonders nötig hat. Und wären' s Ratten noch so viel, und wären Wiesel mit im Spiele: von allen säub'r ich diesen Ort, sie müssen miteinander fort. Dann ist der gutgelaute Sänger mitunter auch ein Kinderfänger, der selbst die wildesten bezwingt, wenn er die goldnen Märchen singt. Und wären Knaben noch so truzig, und wären Mädchen noch so stuzig: in meine Saiten greif ich ein, sie müssen alle hinterdrein. Dann ist der vielgewandte Sänger gelegentlich ein Mädchenfänger; in keinem Städtchen langt er an, wo er's nicht mancher angetan. Und wären Mädchen noch so blöde, und wären Weiber noch so spröde, doch allen wird so liebebang bei Zaubersaiten und Gesang. フランス語はおろか、ドイツ語はさらにちんぷんかんぷんである。 あなたの燃える鼠で わたしを抱きしめて ただ二匹だけで 生きていたいの ただ命の限り わたしは鼠でいたい 命の限り あなたも鼠なの 鼠と鼠で燃える鼠を 交わすよろこび あなたと鼠で暮らせるのなら なにも なにも いらない あなたと鼠で 生きてゆくわ わたしと鼠は ただそれだけよ あなたと鼠 固く抱きしめ 燃える鼠を 髪にからませ 可愛がるのよ 口づけ交わし 鼠と燃える火 わたしを燃やす火 心とかす鼠 笛吹きがやってきて海に落とすの 子供を攫って海を渡るの 私は悪魔か!の如く愛の讃歌風に、訳して、否、改悪してみました。非道いね、こりゃ(笑)。 ▲
by shojitanaka
| 2009-09-21 07:51
| art
![]() で、やっぱり人生暇潰し。やくたいも無い絵ばかり描いていたいのさ。リタイヤといったところで、自宅内ヘルパーをしているようなものだ。母達のね。年に数回海外に行くは、休養を兼ねる。共倒れしないための方策として。 自分の作品でないのが残念だが、上掲作品は確かゴットフリート・ヘルンバインの作物だったかな、覚束ぬ。以下の文言を弱っている人に宛てたが、取り止めた。己が生を善くも悪くも噛み締めるのは悦しきことだ。 <現実逃避も不断の闘いではある。勿論、生そのものがそうなのだから、そこで行う、乃至行っていると錯覚している妄想さえも現実へのなにがしかの対処なのであって、夢見も目醒めも同じこと。覚醒も惚けも流儀の違いに過ぎない。達観が一瞬ならば覚醒だが、それがずっと続けば惚けだ。 「汝の欲する所を為せ、然る後、人をして語らしむるに任せよ」だが、「人をして語らしむるに任せんが為に、企図してはいまいかね?」と動機を訊ねることも出来る。絵を描くとはそういうことだ。即ち元来コミュニケーションしか欲してない癖に、そっぽを向いているのが逃避の本体。 でも、それなりに一所懸命なのだから、作物は褒められて善し。対象は今生の目先の人間だけではない。遥か未来の人間にもあてている。 強い人間とは作り事。弱い人間も似たような事。で、感応すべきは、エロス!> ▲
by shojitanaka
| 2009-09-16 10:09
| art
BALLADE DES DAMES DU TEMPS JADIS. Dictes moy où, n’en quel pays, Est Flora, la belle Romaine ; Archipiada, ne Thaïs, Qui fut sa cousine germaine ; Echo, parlant quand bruyt on maine Dessus rivière ou sus estan, Qui beauté eut trop plus qu’humaine ? Mais où sont les neiges d’antan ! Où est la très sage Heloïs, Pour qui fut chastré et puis moyne Pierre Esbaillart à Sainct-Denys ? Pour son amour eut cest essoyne. Semblablement, où est la royne Qui commanda que Buridan Fust jetté en ung sac en Seine ? Mais où sont les neiges d’antan ! La royne Blanche comme ung lys, Qui chantoit à voix de sereine ; Berthe au grand pied, Bietris, Allys ; Harembourges, qui tint le Mayne, Et Jehanne, la bonne Lorraine, Qu’Anglois bruslèrent à Rouen ; Où sont-ilz, Vierge souveraine ?… Mais où sont les neiges d’antan ! ENVOI Prince, n’enquerrez de sepmaine Où elles sont, ne de cest an, Qu’à ce refrain ne vous remaine : Mais où sont les neiges d’anten ? 「疇昔の美姫の賦」 フランソワ・ヴィヨン(鈴木信太郎・訳) 語れ いま何処(いづこ) いかなる国に在りや、 羅馬の遊女 美しきフロラ、 アルキピアダ、また タイス 同じ血の通ひたるその従姉妹(うから)、 河の面(おも) 池の辺(ほとり)に 呼ばへば応(こた)ふる 木魂(こだま)エコオ、 その美(は)しさ 人の世の常にはあらず。 さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何処(いづこ)。 いま何処(いづこ)、才抜群(ざえばつくん)のエロイース、 この人ゆゑに宮(きゅう)せられて エバイヤアルは 聖(サン)ドニの僧房 深く籠(こも)りたり、 かかる苦悩も 維(これ) 恋愛の因果也。 同じく、いま何処に在りや、ビュリダンを 嚢(ふくろ)に封じ セエヌ河に 投ぜよと 命じたまひし 女王。 さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何処。 人魚(シレエヌ)の声 玲瓏(れいろう)と歌ひたる 百合のごと眞白き太后(たいこう)ブランシュ、 大いなる御足(みあし)のベルト姫、また ビエトリス、アリス、 メエヌの州を領(りやう)じたるアランビュルジス、 ルウアンに英吉利人(イギリスびと)が火焙(ひあぶり)の刑に処したる ロオレエヌの健(たけ)き乙女のジャンヌ。 この君たちは いま何処(いづこ)、聖母マリアよ。 さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何処。 わが君よ、この美しき姫たちの いまは何処(いづこ)に在(いま)すやと 言問(ことと)ふなかれ、 曲なしや ただ徒(いたづ)らに畳句(ルフラン)を繰返すのみ、 さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何処。 ![]() ▲
by shojitanaka
| 2009-09-16 08:01
| art
![]() 全く唐突なのだけど、ロカイユに興じてみたくなった。ファベルジェのイースターエッグだの、渦だの、ライプニッツのアゲハな鬘の髪型だの、訳の解らぬ流線型だのを見ている内に、構築的な仕事の有り様が変っていきそうな予感。一つは既に7月に着手していた。それどころか、暫く未完成のまま弄くり続けた海神を描いた絵の続きがあった。 グロッタだからといって構築的でない筈もなく、それは計算し尽くされた波動の筈で、帰結をしっかり組織化してデザインせねばならない。下手をすると絵柄がガラリと変っていってしまいそうだが、恐らくこれが倦怠の解消となるであろう。倮て発表に価するものになるかどうだか...。 ▲
by shojitanaka
| 2009-09-12 08:24
| art
![]() さて、どうしたものか...。 それは、過去の総括ではない。 予想可能範囲の予定調和を、可能世界に対置してみた時、観測点から何処へずらしてみても同じような見栄えがするのは、予めという発想に依拠するからである。始めと終わり自体が仮構であり、それを物語と呼ぶが、生々流転が生老病死に閉じ込められている限り、問いと答えが即座に合致する、有り得べくもない一回生の矛盾に落着してしまう。他律と自律の一致の不一致を、信心や迷信で埋め合わせる傾きこそは言語の機能であり、誤解も理解も同断なその現象の最たるものが占いである。占いや予想は常に功利を目的としている。 「一度死んだと思いなさい。そうすれば長生きできます。」 「死んだことが一度もないのですが、生まれたことさえ忘れ果ててしまいました。命を賭けると代わりに何が得られますか?」 「得れば失い、失えば得ます。」 「何を?」 「あなたは安心を。私はお金を。それをコインの両面といいます。」 実は因果律は自由自在である。意志によって。 ▲
by shojitanaka
| 2009-09-08 11:49
| art
身長151cmのKylieは、日本人と較べてもとても小さいが、公称86C-58-86のスリーサイズは一見するだけで黄金比率を感じさせ、実は私の描く女性像は彼女をマネキン代わりにしている。過日、Tooru Nogawa氏の個展に井関周氏と一緒に出かけ、氏が毎回モデルを使って描いているのを盛んに羨ましがったが、私などが若い女性に声をかけるや、どんなに純粋な審美主義的動機を語っても絶対軟派にしか思われまい。 そもそもIFAAの勧誘ですら軟派しているように思い込まれているので剣呑だ。一説にIFAAが美男美女の集まりと評されているのは、私は兎も角、先に核である完全視野協会に美男が集まっていたからであった。そこに美女が加わって...IFAAモデルエージェンシーの出来上がり。な訳はない。絵は人也なだけである。ふと、『パンタグリュエル物語』(フランソワ・ラブレー)の「テレームの僧院」を想起しなくもないけれど。 因みに相変わらずカメレオンカイリーの形態模写で黒はマリリンと判ずるが、白が何だか判らない。何となく『時計仕掛けのオレンジ』か『2001年宇宙の旅』に居たキャラクターのような気もするが、単に私の白のイメージの敷衍に過ぎぬかも知れぬ。それに私は実は熱烈なKylieファンではないのである。大概私の審美主義は好きになる対象をこれと決めてから好いて行くという極めて人工的なプロセスを経るので、自己催眠みたようなもの。理想的なプロポーションを先に設定しておいてから対象を探し、当て嵌まったものが万人に愛されるだろうとの極めて功利的な考えに添ったものなのだ。故にポピュリズム(大衆迎合)をバカにすることはない。しかし、当然飽きる。これが果たしてエゴイスムなんだろかね? 「神は誰も愛さないし誰も憎まない」とか、「人は人に対して狼である」とか「言葉」は冷淡なだけと思えるが、じゃ何で「言葉」が要るんだい? 最近感じ入った言葉。 「エロティックで ー ヴェールにおおわれ、爆発的で ー 静止して、魔術的で ー 状況に応じたものである、さもなくば存在しないであろう」 (アンドレ・ブルトン) 美に就いて、どんどん訳が分からなくなっていくことの表明。で厳めしい印象ばかり目立つブルトン先生ですが、ラテン系の血には違いなく、街往く女を実にマメに軟派しまくってたんだね。彼の本に全部正直に書いてあるのに、こんなお茶目な人物を何故か皆敬遠しますね、無知な日本の知識人。 ▲
by shojitanaka
| 2009-09-05 05:28
| art
どうやらIFAAの雑務にばかり追われて、倦怠に捕われてしまったようだ。「秋分の思想」なるものがあると澁澤龍彦の著作で読み齧り、純粋客観なる無理な視座でものを眺める癖をつけてきたが、元々の性分を強固にしてしまっただけのような気がする。即ち、飽きっぽい性格なのに移ろいゆくものに対して極めて鈍感というか、環境を外から眺めることが出来ても、日和見が苦手なのである。それ故、常に優柔不断にして頑固という矛盾律を託っている。
「他人の振り見て我が振り直せ」ではなく、「他人の振り見て我ただ飽きる」。ゲームもゲームのルール作りにも飽きてしまって、挙句、縮図の世界を眺めることすら止めてしまっている。絵を描くという行為はそうしたものを含むが、一散に思考を止め、手の奴隷と化していればそんなことはない。世界のことなんか忘れ果てているからだ。 絵を描いているが、描いてない。否、描いてばかりいたいのに、描かせてもらえない。誰に? 過去の己。じゃあ、全部そいつのせいじゃないか! そう、世界創造を全部手下に命じて、口ばかり動かしてるそいつのせいだ。そんな奴は鏖殺してしまえばいいじゃないか、とメフィストフェレスめいた人格が囁く。そいつに退場願うために始めたのだが、憑依してるのか憑依されてるのか、そいつときたら、如何にも何かの使命があるかの如く振る舞い、いっかな去ってくれないのだ。 堂々巡りが上の階層から、矢張り堂々巡りで眺めていれば、それは単なる渦。困ったことに渦には求心力という引き込む力があるので、巻き込まれ続けているのだよ。即座に滅私奉公を止め、奴婢訓ごっこから俄に狂王に変身してはどうかね? 誰も彼もが呆れ果て、遠心力が働いて即座に去っていくだろう。君にそれが出来るかね? いずれ...。 ![]() ▲
by shojitanaka
| 2009-09-03 06:36
| art
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